茶道の『知らなかった!』
間違いだらけの茶道イメージ
茶道は女性の花嫁道具!?
一般的に茶道は踊りや華道と共に女性の習い事と思われています。最近ではその傾向が薄れてきましたが結婚を控えた女性は慌ててお茶や生け花を稽古しました。しかし、このようなことは明治以降の比較的新しい傾向です。
歴史的にみると茶の湯はその時代をリードする階層に属する男性の嗜みとしての地位を与えられてきました。公家、将軍、戦国武将、大名、豪商などがその担い手でした。
| コラム:戦争がお茶を広めた? |
| 日清日露戦争で多くの日本人将兵が戦死しました。その頃の将官の多くは武士階級出身者でその夫人たちは嗜みとして茶の湯を習っていました。こうした多くの戦争未亡人の救済策として明治政府は茶道の各家元に女性がお茶を教えることを許可するように依頼したそうです。この戦争で女性のお茶の先生が生まれたことを考えれば、戦争が茶道を広めたと言えるのかもしれません。 |
昔の古臭いもの?
お茶を楽しんでいる人たちは古い書画骨董を使って茶を楽しんでいると思われているのではないでしょうか。茶そのものがその当時の先進国、中国からの輸入品で、その茶を点てる道具類も輸入品だったのです。その後も外国製品を茶道具として工夫して使っています(「見立てる」といいます)。ブランド品を喜ぶ日本人の原点があるような気がします。現在でもどんどん外国製品を使って茶の湯を楽しんでいるのです。そうして茶道自体も時代に合わせて変化しています。椅子席で手前や茶を飲むことのできる立礼(りゅうれい)はその好例です。
お金が掛かる?
歴史的な工芸品や有名作家の茶道具は高価なものです。しかし、日用品で点てたお茶も価値は同じです。要は「心」です。心をこめて点てた茶はお客の心に通じます。
利休曰く、「茶の湯とはたゞ湯を沸かし茶をたてゝ のむばかりなる事としるべし」
役に立たない?
茶の湯の基本は「礼」です。「礼」は挨拶です。TPOに応じてその挨拶の形が変わります。「真・行・草」の礼(挨拶の形)を知ればどのような場に出ても臆することなく挨拶ができますし、西洋のマナーも怖くはありません。又懐石料理の食べ方を理解すれば西洋料理のテーブルマナーの理解も早くなるでしょう。
茶道具の扱い方や茶の点て方、その準備の内容には普段の生活やビジネスを改善するヒントが沢山あることに気づくでしょう。
茶道の精神は「和敬清寂」です。この心で人に接すれば世の中が和やかになります。
男の茶の湯(『茶道』=『男性の文化』)
茶の将来
歴史を振り返ると、遣唐使によって仏教とともに茶が日本に入り、鎌倉時代には栄西が茶の木と共に持ち込み禅寺での喫茶の風習を伝えました。禅宗に帰依した武士・商人の間にも広まります。室町時代には幕府の重要な典礼となり守護大名に広がり、八代将軍義政は京都東山に東求堂を建て、その中に「同仁斎」という茶室を造りました。これが茶室の原点と言われるものです。ここで義政は中国から輸入した道具を使い、茶会を催しました。
その後村田珠光がそれまでのお茶を簡素化した「侘び茶」を創案し、それを千利休が大成したのです。
天下人と茶の湯
戦国時代には茶道具を巡って命や城のやり取りがあった程その存在価値が大きくなりました。織田信長や豊臣秀吉が茶道を政治的に活用したことは広く知られています。信長と松永弾正との間に繰り返された名物道具をめぐるやり取りは、特に有名です。江戸時代には全国の大名から高級武士・豪商の間に広まり、その裾野が広がりました。
財界人と茶の湯
近世から戦前にかけて、数寄者(すきしゃ)と呼ばれ名物茶器を収集し茶室を建て茶事を楽しんだ大物実業家は殆ど男性です。実業家も茶の湯を知らずには社交界で大きな顔を出来なかったのです。また、この数寄者達は茶道具を造らせて伝統工芸品の作家・職人のスポンサーとなり日本伝統工芸の維持向上に貢献しました。
三菱の創設者・岩崎弥太郎、電力王・松永安左衛門、三井の大番頭・益田孝、阪急創設者・小林一三、東急創設者・五島慶太、東武創設者・根津嘉一郎など錚々たる名前が見られます。
現代に於いてもビジネスマンの教養として茶道を嗜み日本文化への造詣を深めることが必要と言えるでしょう。
女性への広がり
明治に入り、政府の働きで、各流派が女性にお茶を教える資格を与えることになったそうです。そうして一気に女性の間に茶道が広まり、女性の花嫁道具のように評価されるようになりました。茶道の長い歴史の中で女性が主体のようになったのは最近の100年ほどの間なのです。